世界平和への旅 〜そして、わが祖国編〜

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zoom RSS 『コーカン紛争2009』 3.彭(ポン)主席と果敢の歴史

<<   作成日時 : 2015/02/24 07:47   >>

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2009年3月11日、果敢民主同盟軍とミャンマー政府間の和平合意20周年記念式典に参加した。

彭家声(ポン・ジャーション)主席がジープ型のレクサスに立ち乗りして会場を一周しながら、民主同盟軍の部隊に向かって、「同志们好!(みんな元気か!)」と叫ぶと、軍人たちが大声で「主席好!!(主席元気です!!)」と大声で応じた。

式典は最初から最後まで、「The Peng’s Show」という感じだった。朝の10時から始まった、式典は宴会や野外ショーなど夜の10時まで続いたが、彭主席は78歳と高齢にも関わらず、最後まで式典に参加して、その健在ぶりを発揮していた。

果敢側からは彭主席、ミャンマー側からは果敢地区のミャンマー軍司令官が代表して出席していた。その他、ミャンマーの日本大使館をはじめ、中国のマンダレー総領事、果敢軍の盟友であるワ軍の代表など、ミャンマー各地から式典に参列していた。

彭主席は演説で「保和平、求発展(平和を保ち、経済発展を求める)」を強調し、国際社会からの支援、特に日本、中国、国連に対して、感謝の意を示していた。

少し違和感を覚えたのが、予定されていたミャンマー側からのスピーチが急遽キャンセルになったことだ。これから2010年のミャンマー総選挙に向けて、国境付近や少数民族地域での緊張が高まることが懸念されていたが、これが何かの予兆でないことを祈った。1989年に和平が成立し、2002年にケシ栽培が全面禁止された果敢地区が健全な発展をしていくためには、今後も政治的安定と経済的支援が重要だからだ。

実はこの1ヶ月前、きいちは着任の挨拶として、彭主席の自宅で会見をしていた。

少し待たされた後、接見室に入ろうとしたら、部屋から身長160cmぐらいの小柄の老人がひょこひょこと現われて、握手を求めてきた。これがあの「戦神」と名高い彭主席だと思うと、われながら少し緊張した。高齢ながら非常にカクシャクとしていて、頭脳明晰な印象を受けた。

言葉はコーカン訛りの強い普通語を話してくれたので、半分ぐらいは言わんとしていることが分かった。何しろ初めての会見なので、まずは気に入られることが肝心と思い、特に質問もせずに、もっぱら話好きな好々爺の聞き役に回った。

彭主席は、コーカン特区の代表であると共に果敢民主同盟軍の総司令官でもある。日本で言えば、県知事に暴力団の組長を合わせたぐらいの権力を持っているのではないか。ラオカイの街には至る所に、中国の旧正月に合わせて、「彭主席生日快楽!」の横断幕が見受けられた。

さながら中国文化大革命時の毛沢東のようなカリスマを彷彿とさせた。彭主席は、1960年代から80年代まで果敢同盟軍を率いて反政府闘争を戦い抜き、以前は「戦神」と崇拝されていた人物だ。果敢同盟軍は、以前は4,000人程度いたらしいが、1989年のミャンマー政府との和平条約を機に縮小され、現在は2,000名程度と言われていた。

彭主席曰く、ミャンマー全体で70万人いた果敢人も、現在ではシャン州と果敢特区に分断されてしまい、特区にはわずか20万人以下しかいないこと。また、土地が痩せていて現金作物が育ちにくいため、サトウキビやお茶、蕎麦など限られた農作物しか育てられないため、貧困から中々抜け出すことができないこと。日本や国連からの支援には大変感謝していることなど、今や「戦神」というよりは、普通の政治家のように終始柔らかな物言いだった。

コーカン特区では90年代から、段階的にケシ栽培の削減を行うと同時に、カジノや観光業で中国から旅行者を受け入れ始め、それを特区の収入源としていた。ミャンマー政府からの開発支援が、満足に受けられない特区が生き延びるためには、ケシ栽培に代わる産業が必要なのは当然のことだ。

枯れた土地で20万人を養わなければいけない特区の長としては、苦渋の選択だったのではないだろうか。アヘンやカジノと聞くと、日本人は悪の権化のように感じるかもしれないが、善悪の基準は、我々先進国の人間が杓子定規に当てはめられるものでは決してない。

ここで簡単に、果敢の歴史をおさらいしておこう。背景を理解しておかないと、ミャンマー政府と果敢政府の対立や、なぜ国際社会が果敢特区で支援しているのか、理解が難しいと思うからだ。

今から340年ほど前(17世紀半ば)、漢民族王朝「明」の永歴帝を守っていた近衛兵たちが、満州族の清朝に屈したくないため雲南省に逃れて、果敢地域に来たのが果敢民族の始まりと言われている。先住民族としてシャンやパラウン、ミャオ、リス、ワ、ペー族などが住んでいたが、文字がなかったので、それ以前の詳しい歴史はあまり分かっていない。

果敢は清朝末期の1886年に正式に英国の統治下に入ったが、同じ漢民族であることから中国との民間交流は活発に行われていた。1942年に日本軍がミャンマーに侵攻し、英国軍がインドに撤退した折には、中国がドサクサに紛れて果敢に国旗を掲揚して、英国が抗議をした事件もある。
 
第二次大戦後、抗日戦争の健闘を称え、英国のチャールズ6世が当時の果敢の統治者であった楊文炳(ヤン・ウェンビン)に勲章と賞状を贈った(ミャンマー全体で4名のみ)。ラオカイの郊外には、中国語で書かれた抗日戦争記念碑が未だに立っている。中英両国が同地域を如何に重視していたかの証左だ。

何故中英両国がこの地域を重視していたかと言えば、アヘンの栽培地域だったからだ。19世紀半ば、英国植民地時代にイギリスが中国から茶や絹を輸入するために、この地域でケシ栽培を始めた。ケシは中英両国にとって死活的戦略物資だった。第二次大戦後、ケシ栽培は中国国民党軍の資金源として受け継がれ、その後ビルマ共産党軍が、そして緬中国境沿いの少数民族の武装勢力が麻薬利権を引き継いだ。果敢はその一つだ。

1948年に果敢が正式にミャンマーの一部になった後も、緬中両政府間で同地域を巡った綱引きは続いた。ミャンマーは中国と果敢との国境線を画定し、1962年にネウィンが軍事政権を確立した後は、それまで100年近く果敢を統治していた土豪の「楊(ヤン)」ファミリーを排除して、政府の直轄下に置くことに成功した。「楊」一族はその後タイとの国境沿いに場所を移し、反政府闘争を続けることになる。

そうした中、1965年に突如として果敢人民革命軍を率いて登場したのが、現在の果敢特区主席の彭家声だ。彭主席は政府軍と闘っていたミャンマー共産軍(つまり中国共産党)の後ろ盾を受けて、政府軍に反旗を翻した。

政府軍は「アヘン王」の異名をとる羅星漢(ロー・シンハン)を立てて、彭主席率いる果敢軍と戦いを続けたが、1968年から2年間にわたる激戦の末、1969年にとうとう撤退し、果敢はミャンマー共産軍(つまり中国共産党)の管轄下に入った。羅星漢はその後タイとの国境沿いに移り反政府闘争を開始したが、1973年に政府軍に捕えられ、1980年の恩赦が出るまで監禁されていた。

1989年になってようやく、彭主席は政府軍と和平条約を結び、果敢は「ミャンマー連邦第一特別区」として新たにスタートした。2002年に果敢でアヘン栽培全面禁止を達成した彭家声が、和平20周年記念式典で、「保和平、求発展(平和を保ち、経済発展を追求する)」とスローガンを唱っていたのは、戦いに明け暮れた彼の半生から得た心の叫びのようにも聞こえた。

風光明媚なひっそりとした山岳地帯が、英国が導入した「アヘン」という魔物のために、突如宝の山に化けてしまった。宝のあるところに争いあり。英国対中国の陣取りゲームは、その後ミャンマー対中国の争いへと形を変え、果敢人のリーダーもどちらかに付くことを余儀なくされた。

ところが、国際社会からの圧力で果敢がアヘン栽培を止めた途端、誰も見向きもしない、元のひっそりとした山岳地帯に戻ってしまった。昔との違いは、ここ百年で20万人にまで増加した人口をアヘンなしで如何に食わせていくか、という問題が残ったことだ。

こうした問題を解決するために、JICAは1997年からケシ代替作物の普及を始め、国連やNGOはケシ栽培撲滅が宣言された2003年から、STWが元ケシ栽培農家に対する人道支援を始めることになったのだった。

(つづく)

きいち

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