世界平和への旅 〜そして、わが祖国編〜

アクセスカウンタ

zoom RSS 『コーカン紛争2009』 15.最後の賭け

<<   作成日時 : 2015/03/12 08:43   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

ミャンマー離任も残り2週間となったある日、突然所長が、「きいちー!!」と大声で叫んだ。部屋に行ってみると、普段冷静な大ボスにしては珍しく興奮気味だ。

「今、内務副大臣と会って来たんだけど、お前をラオカイに戻してくれるってよ!」

「本当ですか?」

「ずっとじゃないけど、短い期間だったらいいって言ってくれたんだよ。今から正式に要請レターを書くから、細かいスケジュールを早く教えろ!」

「おぉー、さすが!」と大ボスのネゴ力に感心しながら、早速チケットと車の手はずを整えた。

8ヶ月以上もヤンゴンで待機させられ、オフィスも乗っ取られた。負け続きのミャンマー政府との関係に嫌気がさしていただけに、今回の「コーカン再訪」では何としても勝ってやると闘志がみなぎってきて、出発の前の晩は興奮して中々眠れなかった。

ただ、内務副大臣が口頭でOKを出したものの、コーカンへの旅行許可証は、出発前に手にすることはできなかった。内務副大臣の他に、ラシューとラオカイの軍事司令官からも許可がないと、発行できないらしい。

ただ、そんなことは関係ない。旅行許可証なしでも、大ボスの手紙の力で、4つのチェックポイントを必ず強硬突破して見せる!逮捕されようが、強制送還になろうが、残りあと2週間でスーダンに行くわけだから、どっちでも一緒だ。ここまできたら、最後の賭けに絶対勝って見せる、と意気込んだ。

実は内務副大臣とは、その話が来る1週間前に、ヤンゴンで一緒にゴルフをする機会があった。「この人が俺をコーカンから締めだして、8ヶ月以上ヤンゴンに待機させている張本人か」と内心は怒りに震えながらも、愛想よく自己紹介した。

「できればラオカイでお会いしたかったのですが、なにせ入れてくれないもので…いずれにしてもお目にかかれて光栄です」

「コーカンにいた時はミャンマー語が全く話せなかったけど、ヤンゴン滞在が長くなったので、少し話せるようになりました」

「次回は、是非ラオカイで一緒にゴルフをしたいものです」などと、ちょっと嫌みを効かせながら、とにかくコーカンに戻らせてくれ、とさんざんお願いしておいたのが、効いたのかもしれない。

ずっと黙ってきいちの話を聞いていた副大臣だが、「嫁さんが中国人だからコーカンには愛着があるんです」とポロッと口を滑らせると、メガネの奥の鋭い眼光が光らせながら、「奥さんは果敢人ですか、大陸の中国人ですか」と聞き返してきた。

「まずい、果敢人とのパイプを疑われて、スパイ容疑をかけてきたのか?」と一瞬思ったが、「大陸の中国人です」と言ったら、元の柔和な目つきに戻っていた。

とにもかくにも、ミャンマー政府との最後の闘いが始まった。

ヤンゴンからマンダレーへ飛び、車で約1時間の所にあるピン・イールンの行きつけのカフェ「ゴールデン・トライアングル」で朝食を取った。昔と何も変わっていない。変わったことと言えば、道すがらやたらと女優のウー・モン・シュエリーのインスタントコーヒーの看板が目立っていることぐらいか。彼女は政府高官の孫と付き合いがあるとも噂されている、曰くつきの女優だが、とにかく可愛いのできいちも大ファンだった。

さて、意気込んでラシューに乗り込んだものの、出鼻からくじかれた。旅行許可証はまだ出ていなかったので、ラシューの軍司令官に直接会って、何らかの書類を発行してもらおうと考えていたのだが、軍司令官とのアポが中々取れなかった。

仕方がないので、ラシューの辺境担当省へ出向き、事情を説明した。「ああ、君がきいちか。名前だけはよく聞いていたよ。君の前任者はラシューに来るたびに、うちに挨拶に来てくれたけど、君は今日が初めてだね」といきなりジャブを喰らった。

「ずっと挨拶に来たいと思ってたんですけど、何しろたった7ヶ月でコーカンを追い出されてしまったもので、挨拶に来る機会が中々なくて…今回コーカンに戻れたら、毎月でも顔を出しますよ」とこっちもフックを返す。

うちの大ボスから内務副大臣へのレターを見せながら、内務大臣からも口頭で了承を得ていると説明を始めると、「内務副大臣は外国人を辺境地域に入れる決定権を持っていない。防衛大臣に推薦できるだけだ。”War Office”の承認がない限りは、コーカン入りは不可能だ!」と一蹴された。

要するに、政府内部のプロトコールで言うと、内務副大臣(推薦)→防衛大臣(承認)→辺境担当大臣(許可証発行)のプロセスを経ないといけないらしい。

「許可証なしでも、チェックポイント向けに何らかの文書を発行して頂けませんかね」とごねてみたが、「こいつは何を考えているんだ?」みたいな顔をされて、「許可証なしで、どうやってチェックポイントを通過するつもりなんだね!」と説教をされた。

コトの顛末をヤンゴンに報告すると、「内務副大臣からの了承は取れて、今は内務大臣から防衛大臣に書類をあげる段階だから、とりあえず週末は待機していろ」ということだったので、またラシューでの待機生活が始まった。

実は今回、パスポートの滞在許可証が切れていたため、大事を取ってホテルには止まらず、STWのラシュー事務所で寝泊まりすることにした。部屋にエアコンがないので、夜は汗が噴き出てきて仕方がない。テレビも壊れていたので、近くのレストランでW杯の日本対オランダ戦を観戦したりして過ごした。

最終的に1週間ほどラシューで待機していたものの、離任の日が迫っていたために、ヤンゴンに退散せざるを得なかった。ただ、一矢は報いた。

ヤンゴンに戻る前日に、内務大臣の事務所から、防衛大臣にきいちのケースを提出するので(なんだ、まだしていなかったのかよ…)、詳細なスケジュールと情報がほしいと連絡があったのだ。STWとしてはきいちの代わりに中国人スタッフをコーカンに行かせる手配をして、1カ月後の7月下旬になってようやく、短期間だが国際スタッフをコーカンに送り込むことに成功した。

JICAやNGOは、まだ誰も国際スタッフを戻せていなかったので、この事実は大きいはずだ。ワ州や他の外国人が締めだしを喰らっている地域にも、いい前例になったと思う。きいち自身がコーカンに戻ることは叶わなかったが、特攻隊長として捨て石の役割は果たせたようだ。

ラシューでは、コーカンからスタッフを全員呼んで、一泊二日の戦略会議を開き、今後の方針を話し合った。老板(ラオバン)はじめ、スタッフのみんなと最後に再会できたことで、これで心おきなく離任することができる。

きいちは初めての所長として、本当にいいスタッフに恵まれた思う。ラシュー事務所は人の出入りが激しくて、ここ3ヶ月ぐらいで5人が辞めるという崩壊の危機に瀕していたが、ラオカイ事務所は、きいちの在任中約一年半にわたって、一人も辞めるものは出なかった。逆にスタッフを3人増やしたぐらいだ。

所長代理としてずっと頑張った老板には、大ボスにお願いして、ポストを昇格してもらった。総務担当のポストもグレードを一つ上げることに成功した。こうした措置が、疎外感を感じがちな、辺境で働くスタッフたちの士気を鼓舞することになれば、願ったりかなったりだ。

スタッフに貸していたお金は、一人からは返してもらったが、結局二人からは未回収のままだった。取り立ては老板に任せることにして、未回収金を利用して、「キイチ・ファンド」をラオカイ事務所内に創設することにした。

約15万円のファンドの半分は、語学研修などスタッフの能力育成に渡し切りで活用し、残りの半分は冠婚葬祭や家族の病気など緊急の際にローンとして活用する。ローンの運用に関しては、これまでの経験を踏まえて、1ヶ月分の給料を超えないこと、3カ月以内に返済しない場合は給料から強制的に天引きすることなど、厳格な規定を定めた。実際の運用は老板に任せた。

「きいちイズム」がラオカイ事務所に脈々と生き続けることを願う。それは無理な相談だとしても、曲がりなりにもスタッフたちに支えられながら、1年半の任期を無事全うできたことを喜びたい、そんな気持だった。

コーカンで展開した「太陽政策」的なリーダーシップが、ダルフールで通用するかは分からない。ただ、ラオカイ事務所でスタッフたちから学んだことは、次の赴任地でも決して無駄にはならないはずだ。

ラシューでスタッフと涙ながらに抱擁を交わした後、きいちは意を決して、次なる闘いの地ダルフールへと旅立っていった…

(『コーカン紛争2009』 おわり)

きいち

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
『コーカン紛争2009』 15.最後の賭け 世界平和への旅 〜そして、わが祖国編〜/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる