世界平和への旅 〜そして、わが祖国編〜

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zoom RSS 『コーカン紛争2009』 13.ヤンゴンの日々

<<   作成日時 : 2015/03/09 08:13   >>

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ラシューで2週間粘ったが、結局、外国人であるきいちに旅行許可証が出る見通しが立たなかったので、戦略会議に参加するため、10月初旬にヤンゴンへと一旦戻った。

ワ州の中国人所長も、コーカン紛争のあおりを受けて、ワ州への旅行許可証が出なくなってしまったため、二人でヤンゴンから遠隔操作で、それぞれのオフィスに指示を出すことになった。

それだけだと余りに暇なため、ヤンゴン事務所の雑務を手伝うというどうにも中途半端な立場で、ヤンゴンに居残ることになった。きいちはヤンゴン事務所の報告書作成と広報を担当した。

当初、長くても1・2ヶ月で旅行許可証が出るだろう、とたかをくくっていたのだが、全くでる気配がなく、あっという間に年末を迎えてしまった。

「ああ、なんで俺はヤンゴンなんかでスタック(立ち往生)しているんだ!」というのがその頃の口癖だった。小ボスは、「きいちはなんで、いつも「スタック」なんて言っているの。こんなにいい所なのに」と首をかしげながら、訝しがっていた。

そりゃ、ヤンゴンの方が生活環境はいいに決まっている。外国人やビルマ人からしたら、フィールドは出張2・3日程度ならいいけど、生活するなら断然ヤンゴン!と思っている節があって、ビルマ人スタッフからは「きいちはラッキーだな」と言われることもあった。

冗談じゃない。俺の気持ちが全然分かっていない。そもそも俺は、フィールドの最前線で仕事がしたくて、コーカンの事務所長ポストに応募したんだ。こんなヤンゴンのクーラーのガンガン効いた部屋で仕事をして、ホテルで食事を取っていたら、フィールドの感覚が鈍ってしまう。

それに、自分でイニティアティブを取りながら、やっと仕事が面白くなり始めてきた所だったのに…コーカンフォーラムは一体これからどうなってしまうのだろう。

老板(ラオバン)に尋ねると、コーカンはいまや内務副大臣の胸先三寸で全てが決まるそうだ。果敢政府は完全に傀儡政権に成り下がってしまったし、ミャンマー軍のラオカイ司令官も新しい人に代わり、政府のカウンタパートも立場がなくなり、力関係がすっかり変わってしまったようだ。

コーカンに見果てぬ想いを馳せながら、毎日ダラダラと、行ったこともないミャンマー各地の報告書をパソコンで書く毎日が続いた。こんな仕事に、はっきり言ってやりがいはない。

仕事はダメダメだったが、ヤンゴンの生活はそれなりに快適だった。最初1ヶ月ぐらいは、いつコーカンに戻れるかを期待しながら、ホテル住まいを続けていたが、お金もバカにならないので、同僚のスイス人のマンションに居候させてもらうことになった。

サクラ・レジデンスという、プールやジム、レストラン付きの外国人向けの高級マンション。スイス人と毎朝一緒に泳ぎながら、夜は近場のレストランでステーキに赤ワインという、ラオカイでは考えられないようなモダンな生活を送った。

ヤンゴンは日本食レストランも数件あったし、カラオケやディスコなど、楽しもうと思えば娯楽はいくらでもあった。酒を飲んでくれる日本人や外国人もたくさんいた。きいちもいつしか、毎晩のようにバーに入り浸るようになり、「辺境フィールドマン」から、すっかり普通の「日本人駐在員」のように成ってしまった。

週末のゴルフも、ラオカイと違ってグリーンもフェアウェイも深緑で芝の手入れが行き届いている。当然、ボールのお触りなどはもってのほかだ。一回遊ぶと、キャディー・フィーやら食事やら何やら含めて100ドルぐらいかかった。ラオカイだったら、このお金で一年以上ゴルフを楽しめるだろう。

ちょっと長めの週末には、有名な観光地を見て回った。ヤンゴンの中心部に敢然と金色に輝くシュエダゴン・パゴタ、ゴールデン・ロックで有名なチャイティーヨー、船の片足漕ぎで有名なインレ湖、海岸線がきれいなガパリ・ビーチ…どこも旅行者としてはそれなりに楽しんだ。

が、きいちはミャンマーに観光旅行をしに来た訳じゃない。心の中は何とも言えない、不完全燃焼感が燻っていた。

ラオカイのスタッフやNGOの同僚がヤンゴンに下りてくることがあると、必ず会うようにしていた。思い出話やコーカン紛争の裏話など、楽しい話題は尽きなかったが、話が将来のコーカンの話になると、みんな途端に口が重くなった。

「街中はミャンマー軍が牛耳っているから、カジノも閑散として中国人もほとんどいない」「フォンホワン・ホテルもポン一家の象徴だったから、まだ閉まったままだ」「果敢政府がミャンマー政府の顔色ばかり伺っているから、ラオカイの街中にいる果敢人もみんな肩身が狭そうだ」「2010年5月の総選挙で身分証を手に入れたら、果敢人はみんなシャン州や他地域に移動して、コーカンは過疎化で寂れてしまうんじゃないか」などなど、明るい未来の話は、誰の口からも出てこなかった。

「老大(ラオダー)がいてくれれば、ミャンマー政府にももっと物が言えて、支援活動ももっと活発にやれるはずなのに…」と言ってくれるスタッフもいたが、そんなことはないだろう。新しい政府、新しい人たちと関係を築くのはそれなりに時間がかかるものだ。

老板(ラオバン)は所長代行としてよくやっていたと思う。きいちが教え込んだゴルフをミャンマー軍や政府関係者と一緒にしたりしながら、彼なりのやり方で人間関係を築こうとしていた。

年が明けてから、非常に悔しい事件があった。内務副大臣から一通の文書がラオカイ事務所に届いた。「STWラオカイ事務所の土地と建物を、政府が接収することに決めたので、一週間以内に立ち退くように」との一方的な通達だった。

STWラオカイ事務所は、街中でも見晴らしがよい土地に立地しており、軍部が施設として使用したいらしい。元々、2003年に事務所を開く際に、ミャンマー政府管轄の建物だったものを、ケシ栽培農家に対する人道支援のためにということで、タダでSTWがずっと使用させてもらっていたのだ。

きいちはすぐ、外国にいるSTWの初代所長に、「政府は土地と建物利用に関して、何らかの文書に署名していないのか」と尋ねたが、「あれは口約束だったから、文書は何も残っていない」とのことだった。恐れていたことが起きた。

状況は劣勢だったが、とにかく政府からの通達に「ふざけんなよ!」と激怒して、小ボスに相談した。小ボスは、「一週間以内に、立ち退くっていわれても、代わりの場所も用意してくれないんじゃ、退きようがないじゃない。政府は、STW職員が仕事をしているところに入り込んで来て、強制連行でもするつもりなの?」と一緒に怒ってくれた。

「そうですよ!BBCの現地記者に連絡して、強制退去の様子をビデオに取って、世界中に流しましょう!!」ときいちは調子に乗った。珍しく小ボスと意見があった。

だが、大ボスに話を持って行くと、「きいち、気持ちは分かるけど、政府の建物をずっとタダで利用していて、文書も残っていないんだろう?とにかくスタッフの安全第一だ。要求通り期日までに明け渡すように老板に伝えてくれ」と、いつもの大ボスとは違い、なぜか超弱腰だった。

まあ、大ボスの気持ちも分からないでもない。ラカイン州やワ州、カレン地域へのアクセスなど、STWと政府の間で難しい案件が山積みなのだ。ラオカイの事務所移転ごときで、またやっかい事を政府との間で増やすのは嫌なのだろう。

結局、STWは大人しく事務所を明け渡すことになり、それから新しいオフィスが見つかるまでの半年間、支援物資倉庫を事務所代わりに使って活動を続けた。老板が送ってくれたその写真を見て、涙が出るほど悔しかった。

それにしても…ときいちは思った。ミャンマー政府が、人道支援団体の活動もサポートしないのであれば、コーカンはこの先一体どうなってしまうのだろう。ケシもなく、カジノもなく、人道支援も止めてしまえば、果敢人は2003年以上の困窮生活に逆戻りしてしまうのではないか。果敢人もミャンマー人のはずなのに、なぜ政府は真剣に果敢人の未来を考えないのだろうか…

変わりゆくコーカンのことを心配しながらも、現地に行くことは叶わず、ヘビの生殺しのような中途半端な状態で、無為にヤンゴンの日々が過ぎていった。

(つづく)

きいち

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