世界平和への旅 〜そして、わが祖国編〜

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zoom RSS 日本永久占領2 吉田茂

<<   作成日時 : 2012/02/19 05:34   >>

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第9章 サンフランシスコ講和会議

軍事同盟には、1.平等で相互的な同盟関係(米と英、仏)、2.通常兵器で完全武装している相互援助関係(米と西独)、3.実質上、占領の継続である保護国(米と日本)、の3つがある。アメリカは当初、日本に2のオプションを求めたが、吉田がこれを蹴って、3の名誉あるタダ乗りを要求した。

吉田の講和骨子は、1.日本を米国の勢力圏に入れ、外敵から保護してもらう、2.沖縄に米軍基地を許し、有事には日本本土にも駐留を許す、3.上記二条件を対等なものとみなし、日米関係を相互的、互恵的なものとする、などであった。

第十章 マッカーサーの第五次介入
1950年6月にダレス大使が訪日して、吉田と会見している。マッカーサーがバックにいる吉田は、強気に再軍備阻止を主張した。そんな中、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。マッカーサーと第八軍は韓国に出動し、国連軍の中核を占めた。吉田・マッカーサーの再軍備阻止はこっぱみじんに粉砕された。7月8日、マッカーサーは警察予備隊7万5千人の創設を日本に命じた。ダレスは日本市民からなる国際義勇軍の派遣まで考えていたが、この案はマッカーサーに潰された。

1951年1月にダレスが再訪日した際、吉田は「急激な再軍備は、いま地下に潜った日本の軍国主義者を呼び戻す危険がある」として、再軍備案を再度突っぱねたが、ダレスの猛烈な圧力を受けて、吉田は5万人の保安隊という提案をせざるを得なかった。ただ、戦争放棄条項の平和憲法だけは、マッカーサーの介入により、ダレスも呑んだ。

2月にダレスは、鳩山一郎、石橋湛山など公職追放中の職業政治家たちと会談している。戦後政治における鳩山対吉田の争いは、この時に始まった。吉田とマッカーサーが組んで、二人だけで日本外交の将来を恣意的に決定しようとしていることを鳩山たちは知ったのだった。

第11章 吉田制裁のための安保条約
1951年2月の時点でダレスが示した原案には、1.米国は日本を防衛する義務を持つこと、2.日本有事に対処する事前協議、などが明記してある一方、3.在日基地からソ連・中国と戦争をする極東条項や、4.米軍兵士の裁判権の治外法権、などは含まれていなかった。

ところが、1951年4月にトルーマン大統領が、朝鮮戦争で言うことを聞かないマッカーサーを解雇した。すぐにダレスが来日し、極東条項や治外法権を、講和条約に入れるよう主張し、吉田は押し切られた。7月には講和条約の草案が、8月には安保条約の最終草案がワシントンから届いたが、特に安保条約は内容を公表しないように、との条件付きだった。

1951年9月8日、サンフランシスコ講和会議が開催され、48カ国の代表が出席した。日本全権団は、夜11時に講和条約調印が終わってから、突然翌日午後6時から安保条約を調印すると、吉田に伝達した。野党に草案すら見せていなかったので、条約に署名したのは、日本側では吉田一人だった。

すべての義務は日本が負い、米国には権利だけがある、完全な不平等条約だった。米国には日本国内の騒乱に軍事介入する権利があり、日本が第三国に基地を貸与・提供するのを拒否する権利があった。核兵器の出入りに関する米国側の義務もなく、条約には時間的制限も付いてなかった。

そもそも、あの憲法で日本の自尊心を守ろうとしたことに無理があった。憲法と国家の安全を吉田は駆け引きの道具に使った。マッカーサー第5次介入の密約がダレスによって破棄された時点で、吉田には憲法を守る理由はなくなったはずだ。それでも憲法に固執することで、吉田はあのひどい安保条約を呑むことになった。憲法を守って、日本の尊厳を失ったのだ。

第12章 ライシャワー
ダレスは、マルクス主義と反米ナショナリズムしかない日本に、新しいイデオロギーを与えようとした。ハーバード大学のライシャワーにこの企画を委託した。日本はアジアで一番先頭にたって近代化を推進した進歩的な民族、という近代化のパラダイムで、徳川後期から明治維新を経て、満州事変までの歴史を正当化した。軍国主義は、近代化過程からの逸脱で、歴史の必然ではないとするストーリーを作った。

ライシャワーは、丸山真男や大塚史学でマルクス主義の独壇場だった東大を敬遠して、猪木正道の弟子だった高坂正堯を日本側の代表として指名した。日ソ講和を外務省と吉田が一緒に潰したことは伏せ、満州事変から敗戦までを陸軍の暴走にして、外務省に利する歴史観を打ち立てた。職業政治家は軍国主義者にされ、官僚が優遇された。

第13章 社会党
7年間の占領は、講和条約が発効した1952年4月28日に終了した。米国政府は日本の再軍備、憲法改正を諦めていなかった。それに抵抗する吉田は、必然的に社会党と目に見えない共同戦線を確立していった。吉田と鳩山の政争は、マッカーサーとダレスの代理戦争でもあった。社会党は、吉田を通じて、マッカーサーの孫請けの代理戦争をしていた。1951年6月に鳩山が脳溢血で倒れたのを理由に、職業政治家たちは吉田の自由党に戻り、自由党奪還を目指した。自由党は、官僚派対職業政治家に割れた。

第14章 金乞い外交
吉田人気が下落する中、唯一の救いが朝鮮特需だった。日本を軍需工場にすると経団連が邁進し、アメリカ軍需産業の下請けをやって技術と利潤をとろうとした。鳩山派が反撃ののろしをあげ、改進党分派工作で、保守の四分化がはじまり、派閥が生まれる土壌が形成された。派閥と中選挙区制はあまり関係がない。鳩山派、吉田派、社会党は、政策によって、組み合わせがしょっちゅう変わった。

第15章 第二次吉田・ダレス戦争
1952年11月共和党のアイゼンハワーが米国大統領に当選した。アイゼンハワーは、朝鮮戦争の終結、軍事予算の削減などを選挙公約として掲げていた。ところが国務長官には、あのダレスが戻ってきた。吉田・ダレス戦争の再開だ。

1953年2月に、国会でバカヤロー解散が起き、総選挙の結果、吉田は過半数を失ったが、護憲派の社会党が衆議院の3分の1を取った。社会党が吉田の盾となってくれる体制ができた。

その頃、米国議会はMSA「相互安全保障法」を採択し、同盟国への軍事援助が強化された。吉田は警察予備隊を保安隊に切り替え、なしくずし再軍備をして、アメリカから援助を引き出そうとした。三木武吉は憲法が日本を非武装化する国際条約になってしまうと懸念を表明したが、吉田は国民生活が回復するまでは、憲法を盾にアメリカに軍事を任せておけ、と考えていたそうだ。10月に池田勇人政調会長は、MSA協定を締結するため、ワシントンを訪問したが、18万人の再軍備の見返りは、たった5千万ドルの農産物援助だけだった。

1954年3月にMSA協定が締結され、国会は自衛隊法と防衛庁設置法を可決した。アメリカから十分な援助を引き出せなかったので、9月に吉田は防衛予算を10%削減した。吉田は意地になってダレスに盾ついていた。一方、ダレスの主導で核爆弾による「大量報復」戦略を採択したアメリカにとって、日本の防衛問題は緊急性を失っていき、12月に在日米軍1個師団を日本から撤退させた。

参考図書:『日本永久占領』(片岡哲哉、1999年、講談社プラスアルファ文庫)

(続く)

きいち

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