世界平和への旅 〜そして、わが祖国編〜

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zoom RSS 『コーカン紛争2009』 2.果敢(コーカン)

<<   作成日時 : 2015/02/23 08:38   >>

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ちょっと先を急ぎ過ぎたようなので、時間を巻き戻して、順序立てて話そう。

2009年2月上旬、ミャンマー北東部シャン州と中国雲南省との国境沿いにある、コーカン特別区に、きいちはセーブ・ザ・ワールド(STW)事務所所長として着任した。ヤンゴンから二日かかるコーカンは、まさに陸の孤島だ。

ヤンゴンから旧都マンダレーまでは飛行機でわずか1時間半だが、そこから車で6時間かけてシャン州の州都ラシューで一泊。ラシューは第二次大戦時に、イギリスが重慶の国民党臨時政府を助けた、いわゆる「援蒋ルート」の起点となった街だ。

ラシューから、クネクネとした山道を5時間ほど運転すると、ようやくコーカンに辿り着く。ラシューとコーカンの間には4カ所のチェックポイントがあり、ミャンマー軍に通行許可証とパスポートのコピーを渡さなければいけない。軍部の情報局や政府の移民局にもコピーを提出せねばならず、片道合計6枚のコピーが必要だ。普通の旅行者では決して来ることができない、ある意味ミャンマーの秘境だ。

一方、中国側からは、国境沿いの街、雲南省の南傘(ナンサン)から車でわずか15分の所に、コーカンの中心街ラオカイ(老街)は位置する。中国国境沿いの入国管理局は非常に緩く、コーカン人なら身分証を持っていれば誰でも通行できるし、雲南省鎮康(ジェンカン)県の中国人も身分証があれば自由に行き来ができる。日本人はさすがに無理だったが、ミャンマー人でも身分証を見せて堂々と通行している人もいた。

一度、中国人の知人が、僕を訪ねにコーカンに来た際は、通行証の取得で待つのが面倒臭いと言って、付近の農民に50元(約600円)支払って、「小路」(農道)を通って、遊びに来てくれた。いわゆる「不法入国」というやつだ。

実は、コーカンは、ミャンマーにありながら、ミャンマーではない。約20万人の人口のうち、9割は漢民族で、さながら中国の田舎町のような様相を呈している。電気、電話通信網などは、全て中国側に頼っている。

言葉も、果敢語という雲南省の方言がなまったような中国語を話すし、ミャンマー語を介する人はほとんどいない。コーカンは漢字で「果敢」と書く。古くは「ゴーガン」と呼ばれていたらしいが、中国語の「果断勇敢」から二文字を取って、「果敢(グオガン)」と呼ばれるようになったそうだ。中々かっこいい名前が気に入った。

果敢は特別区というだけあって、一種の治外法権のような場所だ。中国統一前の香港やマカオのような感じと言えばイメージが掴みやすいだろうか。ミャンマー行政区の一つでありながら、自前の軍隊を持っていて、20年前まではミャンマー政府相手にドンパチやっていたお土地柄だ。

「ゴールデン・トライアングル」という言葉を聞いたことがあるだろうか。タイ・ラオス・ミャンマー国境地帯のケシ(麻薬の原料)栽培地帯のことを指すが、果敢もまさにゴールデン・トライアングルの一角として、100年以上前からケシ栽培で生計を成り立たせていた地域だった。

ところが1990年代に入って、ミャンマー・中国両政府が、国境地帯のケシ栽培撲滅に本腰を入れ出し、経済が立ち行かなくなってしまったため、カジノを設けて、中国人相手の観光業で何とか食いしのいでいる、という何ともユニークな場所だ。

カジノ客の99%は中国人。中国国内で賭博が禁止されているため、賭博をするためだけにわざわざ上海からきている観光客もいた。一度来ると、2・3ヶ月泊りこむらしい。カジノで負けて素寒貧になって借金を抱え、そのまま果敢でラーメン屋を開いて住み着いた、武漢出身のおじさんもいた。

中国人の賭け方は半端なくて、一回に1,000元(12,000円)〜1万元(12万円)賭ける人たちもいる。小規模のカジノの胴元が、昨日は30万元(360万円)客が勝った(胴元のホテル側が負けた)と笑い飛ばしていたので、一晩でとてつもない金額が動いているのだろう。

そして、カジノには必ずと言っていいほど付きものの売春街。きいちのホテルは、売春街の片端に位置していて、何ともシュールな光景を見ながら毎日を過ごすことになった。観光客向けのレストランが多かったのは、自炊嫌いなきいちにはラッキーだった。

とにかく、ラオカイに到着した時は驚きの連続だった。ヤンゴンから二日かけて、山奥の田舎町に来てみたと思ったら、なんとそこはカジノと売春街、レストラン、美容室、薬局などが並ぶ、「桃源郷」のような世界が待ち受けていたのだから。といっても、場末の桃源郷ではあったが。

ラオカイでは、鳳凰飯店(フォンホワン ホテル)というところに住みついた。フォンホワンのマネージャーは、実はきいちがミャンマーで初めて出会ったコーカン人でもある。前任者に紹介されて、ヤンゴンに到着してすぐ連絡を取ると、飛びこみ電話だったにも関わらず、滞在先のホテルにわざわざ迎えに来てくれて、その晩一緒にタイ料理をヤンゴンで食べた。

初対面にも関わらず、彼の人懐っこい笑顔とユーモアにほだされ、果敢人のことが一気に好きになった。歴史や女性の話など、歳が同じくらいだったこともあり、すぐに意気投合して、彼が持ってきたジョニ黒をソーダで割って痛快に飲んだ。

正直、自分の中国語が果敢人相手にどこまで通じるか不安だったが、彼はかなりの教育を受けているみたいで、きれいな中国語、ミャンマー語、英語、タイ語などを駆使していた。いわば果敢の若手エリートで、僕の心配は無用の長物に終わった。

彼は果敢政府トップと姻戚関係にあり、その関係で政府の仕事をしながら、フォンホワンホテルの経営もしていたのだ。果敢を訪れる外国人や政府関係者は、当時ほぼ全てこのフォンホワンに宿泊していた。

フォンホワンには、JICAの専門家6名も住んでいた。同じ日本人とういことですぐに仲良くなったが、みなさん仕事が忙しいようで、月に1・2回一緒に食事をするくらいで、結構サバサバした関係が居心地よかった。中国人を除いて、果敢にいる外国人は7名全てが日本人という場所は、世界的に見ても珍しいのではないだろうか。

JICAの中で面倒見のいいおじさんがいて、到着初日から白酒を一緒に飲み、街に連れ出された。「きいちさん、中国語ができるからって、あんまりハメを外すと、JICAのせいにされるから、言動には気をつけて下さいよ」と教育的指導を頂いた。そのおかげで、売春街に住みながらも、一度もハメを外すような行動は取らなかった。感謝。

で、このおじさんがゴルフ好きで、毎週末ゴルフをしていた。何度も誘われるうちに、ついにコーカンでゴルフデビューすることになった。ゴルフは、南ア時代に少し嗜んだのだが、中学時代に野球で痛めた腰の古傷が疼くので、「ゴルフは自分には一生無理だな」と諦めていた。

ところが、コーカンに到着して、政府関係者の人たちに挨拶に行くと、ミャンマー政府も果敢政府の人たちも、しまいには軍の司令官にまで、「ゴルフはやるのか?」と尋ねられて、「多少は…」と応えたために、やらざるを得ない状況に追い込まれていた。カジノの他に娯楽が何もないコーカンでは、ゴルフが政府関係者の間で、静かなブームになっていた。

ラオカイのゴルフ場は衝撃的だった。9ホールだけしかない小さなゴルフ場だということは、前々から聞いていたのだが、そもそもフェアウェイが見当たらない。丘と水田の所々に、スターターとホールを作っただけの即席ゴルフ場だった。

グリーンもなくて、バンカーのような直径5メートルぐらいの砂場にオンしたら、手でピックアップして、固い砂の道にボールを置いてパットする、というルールが適用されていた。みんなで真剣に砂のラインを読んでいるのは、傍から見たらお笑いだが、当事者たちは真剣そのものだ。

グリーンだけではなく、フェアウェイも土だらけの荒い芝生なので、みんなボールを手で触りまくりで、3メートル以内ならボールを動かしていいという、信じられないローカルルールが存在していた。

年会費100人民元(1,200円)、キャディーフィーが20元(240円)という、超格安のラオカイゴルフ場で、政府関係者、JICA専門家やNGO職員と交流を温めることになった。普段は気難しい顔をしている、軍関係者の人たちも、ゴルフ場では飛びきりの笑顔になるから笑顔とは不思議なものだ。

ゴルフの後は、朝11時からビールを飲んで、お昼を食べて、午後は爆睡、というのが、何とも贅沢な、ラオカイでの週末の過ごし方だった。

(つづく)

きいち

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