世界平和への旅 〜そして、わが祖国編〜

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zoom RSS 『コーカン紛争2009』 8.ワ州訪問記

<<   作成日時 : 2015/03/04 08:48   >>

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コーカン特別区の南に位置する、ワ州にも足を運ぶ機会があった。

ワ州には、作家の高野秀行氏が書いた『アヘン王国潜入記』を読んで以来、個人的に興味を持っていて、STWパンカン事務所の中国人事務所長にお願いして、一度訪問させてもらった。

ワ州は、ゴールデン・トライアングルの中心部にあり、90年代にはゴールデン・トライアングルの6〜7割のケシ栽培、アヘン生産を担っていた土地だ。作家の高野氏は、1995年に7ヶ月間ワ州のムイレ村に住み込み、ケシの種まきから収穫、実際にアヘン吸引までして、アヘン中毒寸前になったそうだ。

ミャンマー・中国の政治的に見てもワ州は重要な土地だ。1950年代は、中国を追い出された国民党が反共の砦として、台湾から来た将校と共に、反共運動を展開していた。その後、ミャンマー共産党が支配し、そして、ローシンハン、クンサーなど、歴代の麻薬王が活躍した土地でもある。

1989年にパオ・ユーチャン(鲍有祥)が実権を握り、ミャンマー政府と和平協定を結んだ。17の反政府少数民族のうち、コーカンの彭家声が最初に和平協定を結んだので、コーカンは第一特区、ワ州は2番目に結んだので第二特区と呼ばれている。

反政府系少数民族の間で、コーカンの彭家声が政治的に重要な存在だとすれば、パオ・ユーチャンは反政府軍のシンボルとして重要な存在だ。昔は首狩り族だったと言われているワ族は、勇猛果敢な民族として有名で、現在でも2万人以上の軍隊を抱えて、ミャンマー政府から最も恐れられている少数民族の一つだ。

コーカンのラオカイから、ワ州の州都パンカン(邦康)までは、車で12時間ほどかかるので、初日は第二の都市モンマオ(勐冒)を目指した。

モンマオへの道中よく目にしたのが、ラバー(ゴム)プランテーションだった。なんでもワ州全体で100万亩(約7万ヘクタール)のラバープランテーション計画があるそうで、すでに半分ほどは開拓したそうだ。

ワ州政府は、2005年に全面禁止したケシの代替作物として、ゴムと茶を促進していた。その実行力には驚かされたが、森林伐採による環境破壊や貯水力の喪失による他農作物への影響、中国側の市場価格や輸入政策に左右されるため、ゴムはある意味ギャンブル性が高い作物と言える。

伐採された太い丸太を運んでいたのはいずれも中国の雲南省ナンバーのトラックだった。中国も国内の森林を伐採しつくしてしまったのか、ワ州まで手を伸ばしてきた。経済発展vs環境保護の対立は、ここワ州では圧倒的に経済発展に軍配が上がっているようだ。

6時間のドライブの末、ようやくモンマオに到着。ワ軍の総司令官パオ・ユーチャンの弟が経営している公明山のふもとにある茶園を見学に行った。ミャンマー一の茶園と名高いだけあって、近代的な管理に驚かされた。スプリンクラーによる水撒きや化学肥料を使っている茶園は、昔きいちが働いていた京都の茶園よりもきれいに整備されていた。

ウーロン茶の味もまずまずで、台湾や遠くオーストラリアにまで輸出しているそうだ。このレベルの茶園を全州展開できれば、果敢地区やワ州の未来も明るいのだが、いかんせん管理費がかかるのだろう。モンマオの郊外周辺に限られていた。

モンマオはワ州第二の都市にも関わらず、非常に小さく貧しかった。街の規模は多分半径100メートルぐらいだと思う。宿泊したモンマオ最高級宿の値段は50元(約600円)だった。

夜テレビを見ていると2回ほど停電があり、テレビはあきらめて暗闇の中ビールを飲んで眠りにつくことにした。ビール売りのおばちゃんがやたら愛想がよく、「どこから来たのか」と聞かれたので、「日本(リーベン)からだ」というと、「そこはシャン州のどこら辺だ」と聞いてきたのには驚いた。

翌日、モンマオから6時間、ワ州の州都パンカンに到着した。街はラオカイと比べると小ぶりだが、目抜き通りに車線が引いてあって、右折や左折の矢印が異様にきれいだったので、「おぉ、ここは中国じゃない!」と感動した。

するとドライバーが、「これは4月17日の平和20周年記念用に先週引いたんだよ。ほらあそこの記念広場はまだ工事中で、3月末に完成予定さ」と教えてくれた。この目抜き通りと広場だけ見たら、ワ州の発展ぶりに騙されてしまうところだった。

パンカンに来る道すがら、ワ族のドライバーとワの現状に関して話し合った。ドライバー曰く、「ミャンマー政府からの支援がないためにワは貧乏なままだ」「ワ軍の幹部も私腹を肥やしてばかりで民衆はほったらかしだ」「人生短いんだから争うより平和に幸せに暮らすべきだ。きいちもそう思うだろ?」

彼は小さい時からヤンゴンの国際学校で教育を受けていたために、非常に開明的だった。「それだったら、将来ワ政府で働いて、この地域をよくするために頑張ってくれ」ときいちがけしかけると、「いや、俺はこのドライバーの職を失ったら、村に戻るしか選択がない」ととたんに元気のない答えが返ってきた。英語もうまく、教育もあり、政治状況にも明るい彼のような人材に、ドライバーの職しかないこと自体がワ州の問題なのかもしれない。

次の日、州都パンカンから車で南東へ2時間半、モンポー地区のナンモウ村を訪れた。

ナンモウ村では他村との交流を促進するために、STWの支援で道路の建設・補修を村人たちの手で行っていた。ワ州の人たちは道路整備などの「義務労働」を政府のためによくやらされるので慣れているそうだ。

道すがら、和平20周年式典を前にして、多くの農民達が道路拡張や排水溝の掃除に借り出されていた。STWの事業ではインセンティブとして、参加者へ一日3kgのお米を配給すると言ったら、それを知らないで義務労働だと思い込んでいる人たちもいた。

「あの家は人を出していない」と文句を言っているおじさん、「私はもうこんな年なのに子供がいないから自分で来た」と言うおばあちゃん、成年に達していないと思われる子供も参加していた。「一家一人」はこういった村全体での仕事や軍隊に人を出す時の村の掟のようなものらしい。

ヤンゴンの人権担当官はこういった現状を指して、"Forced Labor(強制労働)"だ"Child Soldier(少年兵)"だと憤っていたが、その土地に根付いている伝統・習慣を、「人権違反」の一言では変えられないだろう。STWの中国人所長は、「まずは「人権」の概念を、どううまくワ州政府に理解してもらうかだ」と言っていた。

実際、ワ政府の幹部と「Human Trafficking(人身売買)」に関して話し合った時も、「貧乏人が出稼ぎに行くのは仕方がない」「不法出入国者が多くて困る」といった感じで、話があまり噛み合っていなかった。

村にはある援助団体が建てた診療所もあって、中国人のおじいちゃん医者がいた。ナンモウ村では患者が少なくて、暇でしょうがないとぼやいていた。まれに、出産や堕胎の手伝いをしたり、簡単な病気を見たりするそうだが、村の人たちは祈祷による伝統的な治療法を重んじているので、診療所にあまり来てくれないそうだ。

パンカンでの仕事を無事終え、モンマオに帰る途中、所長にちょっと無理を言って高野氏が7ヶ月住んでいたというムイレ村に立ち寄れないか尋ねてみた。

残念ながらムイレ村はクンマー地区というパオ・ユーチャン主席の故郷で援助団体は立ち入り禁止だという。あまりに発展しているからか、貧困だから見せたくないのか、ケシの栽培をまだしているからか、勘繰って色々な人に聞いてみたが、「ワ族以外の外国人は故郷に入れたくないんだろう」というのが最大公約数の答えだった。

諦めきれずに、「近くのヤンルン地区まででも行けないか」と聞くと、近くにロンタンという湖がある観光名所にSTWの出張所があるから、その途中にヤンルン地区に寄ればいいと言われた。

だが、帰りはピックアップトラックでノロノロ運転だったこともあり、ロンタン地区に到着した時点で午後4時。STW出張所で用事を済ませて出発したのが、午後5時過ぎだった。日暮れ以降は移動してはいけない、という安全規定があるため、きいちの気持は焦っていた。

最後のあがきで、「ヤンルン地区を一目だけでも見に行こう」と提案すると、「ここからモンマオまで3時間かかるからダメ」とスタッフから却下され、高野氏の足跡を追う機会は潰えてしまった。残念だ。

モンマオで一泊して、最終日にラオカイへ戻る途中、うちの車が事故ってしまった。視界の悪いカーブで、前方から来た二人乗りのバイクとブツかってしまったのだ。一人の若者は足の骨が外から見えるほどの大けが、もう一人の老人は痛がっていたが、外傷はなさそうだった。

ドライバーは、すかさず近くの小枝を折って、車から紐を持ってきて、足の固定と止血処置をして、車に担ぎ込んだ。ここら辺の対応能力はさずがワ族だ。老人も助手席に乗せたので、僕は荷台で揺られながら、1時間ほどかけてモンマオの病院に運び込んだ。

驚いたのは、大けがで流血しているにも関わらず、ワ軍の少年兵は一言もうめき声を漏らしたり、痛がっている様子を見せなかったこと。さすが、勇猛果敢なワ族だと、感心してしまった。

病院では、野次馬たちが責任論の議論をふっかけてきてうるさかったが、なんとかその日のうちにパンカンから骨接ぎの名医を呼ぶ手配をしてもらった。

うちのドライバーは、少年兵のことを気遣って、治療費を家族や親せきから借りようとしていたが、病院費用は、STW事務所の立替で、治療費・入院費は車両保険でカバーすることで、話がついた。きいちも慰安費として多少のお金をモンマオに置いていった。

モンマオには一日長く滞在することになったが、翌日、ワ州のシンボルである牛の角のレプリカがあるチェックポイントの橋を渡って、無事コーカンに辿りついた。

4泊5日と短いワ州訪問だったが、コーカン地区とはまた違った、ワ州の発展のあり方(ラバープランテーション)や問題点(義務労働、少年兵など)を学べて、非常に有意義なワ州訪問だった。

その土地に合った援助をするためには、その土地の風習や歴史を理解しなければならない。ヤンゴンで誰かが書いた国全体の事業計画や報告書だけ読んでいても、現場のことは分からない。辺境の事務所長になり、現場の面白さをますます実感していた。

(つづく)

きいち

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